琵琶が日本に渡来したのは八世紀頃であった。渡来した琵琶は二種類で、一つは雅楽に用いる楽琵琶、一つは後に盲人たちが使用した荒神琵琶であったと言う。楽琵琶には昔は独奏曲もあったが、曲の伝承が絶えると共に、雅楽における管絃合奏の楽器としてのみの用途になった。また、荒神琵琶の方は筑前盲僧琵琶と薩摩盲僧琵琶とに分かれた。筑前盲僧は四絃五柱、薩摩盲僧のは三絃六柱の琵琶であった。そして、中世末期から江戸時代の初期にかけての頃、薩摩盲僧琵琶から筑前琵琶が誕生し、明治中期になって筑前盲僧琵琶から筑前琵琶が生まれた。また、明治の末から東京において、永田錦心による錦心流琵琶が薩摩琵琶の中から派生した。さらに錦心流から出た水藤錦穰は錦琵琶という五絃琵琶を工夫して別派を開いた。結局、薩摩琵琶は現在三派に分かれて活動している。
中世末期の戦国時代において、薩摩の島津忠良が子弟の士気を鼓舞する目的で、琵琶歌を作り世に広めたのが薩摩琵琶の起源だと伝えられ、かつ初期の頃は武家の家庭にのみ行われたというだけあって、剛健な曲風というものが根底にある。 筑前琵琶は、明治二十年代の中頃、博多の盲僧琵琶の流れを汲む橘智定(初世橘旭翁)・鶴崎賢定・吉田竹子らが作り上げた琵琶楽で、それぞれ三つの流派に分かれたが、全国的に広がったのは橘流であった。筑前琵琶の特色は三味線の旋律を取り入れて、華麗に歌う点にあると言える。


JTRAD 010

明治中期に四竈訥治が作詞をして吉水経和が作曲したのを永田錦心(1927年没)が更に手を加えたもので、錦心流の代表曲である。説経節で名高い「苅萱」から材料をとって作ったもの。
あら筋は筑前苅萱の領主加藤繁氏は世の無常を感じ、出家して高野山で修行をしている。父の顔を知らぬ石童丸は、母と共に高野山の父を尋ねるが、女人禁制なので母を麓に残し、山に登って父に逢うが、繁氏は名告らず子供を帰す。麓に戻ると母はこの世の人ではなかった。郷里に帰るとただひとりの姉も亡くなっていた。そこで石童丸は再び高野に上って出家をするという無常の世を表した物語である。
琵琶弾き語り/永田錦心


JTRAD 011

誰も知っている明智光秀が主君織田信長に謀反を企て、天正十年夏六月二日早朝本能寺にあった信長の宿舎を襲い、信長を亡ぼした経緯を描いた曲。なお、演奏者の高峰筑風は吉田竹子に学び、明治三十九年上京して独創的な芸風によって、大正元年、高峰琵琶を創始した人。
琵琶弾き語り/鶴田錦史


JTRAD 012

筑前琵琶の人気曲。作詞は逵邑玉蘭、初世橘旭翁が作曲した。元禄15年(1702)本所松坂町の吉良上野介邸に討ち入った赤穂浪士がめでたく本懐を遂げるという有名な出来事をうたったもの。討ち入りの合図に大石良雄が打つ山鹿流陣太鼓の響きを琵琶の弾奏で巧みに表現している。
琵琶弾き語り/田中旭嶺


JTRAD 013

平家琵琶による貴重な録音。演奏の湯浅半月は国学者だが、自ら波多野流平家琵琶の最後の宗家藤村検校について学び、同派の平家琵琶最後の伝承者となった。「弓流し」は平家物語十一巻にある一齣で、源義経が流された弓を単騎海に入り、敵船間直でこれを取り返す。近臣にその軽挙を諌められるが、義経は自分の弱弓を知られることを恥じたのだと語り、一同それに感心するという物語である。
琵琶弾き語り/湯浅半月