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謡曲
謡曲というのは、中世の室町時代に世阿弥に依って大成された能楽の詞章を音楽としての立場から言う言葉である。能楽は既に日本音楽の歴史の中で触れた通り、物真似芸からおこった猿楽能に、先行芸能の田楽能の要素を採り入れ、更に当時世間で流行していた舞楽を摂取して大成させたものである。
能楽の精神的基調には詞章の上にも演技の上にも幽玄ということが尊重された。この幽玄を目標とするという点において、当時の人々は田楽能を捨てて能楽にはしったと考えてよい。なお、能楽における幽玄とは、優雅で柔和典麗な情趣をさすのである。能楽の大成者世阿弥は、現在の観世流の流祖に当る。

五番立
江戸時代に入り、能が幕府の式楽として整えられるにつれて、一日五演目が正式な番組ということになった。この五番立(ごばんだて)上演のためおおまかな演目の区分が形作られた。型通り演ぜられた場合、「翁」(おきな)は別格として最初に演ぜられる。

初番目物(翁の脇だから脇能ともいう。神仏物。)
二番目物(武将などの修羅道の苦しみを見せる。修羅物)
三番目物(歴史上著名な若い女性などが登場する。鬘物。)
四番目物(狂女物・現在物などを含む雑能。)
五番目物(鬼神や天狗などを主人公とする。鬼畜物。)




歌舞伎踊
中世の終わりになると、歌舞伎踊というものが市井に行われてきて、出雲阿国による歌舞伎踊は京の人々を熱狂させ、禁中において上演されるほどになった。阿国の演目の中で、特に人々から注目されたのは念仏踊だった。この踊りは阿国が始めたオリジナルのものだったようで、在来の踊念仏を歌舞伎舞踊化したものであった。「はかなしや、鈎にかけても何かせん、心にかけよ弥陀の名号、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といったような小唄を唄いながら踊ったといわれる。
このような「念仏踊」、あるいは従来からの「かか踊」「やや子踊」といった踊唄を阿国が踊ったとき、それらを総称して歌舞伎踊と言うようになった。これらの踊唄がどのように唄われたものか、現在では不明だが、中世末期に流行った小歌の一種であったと思われる。中世後期に入った室町時代で見過ごすことのできないのは小歌の流行である。小歌は、宮中の儀式に用いられた大歌に対するもので、流行歌的な存在を言う。室町時代の小歌を集めたものに閑吟集(1528)がある。その閑吟集や室町時代小歌集といったものから約半世紀たった文禄年間(1592〜96年)に高三隆達によって隆達小歌が歌い出された。伴奏に三味線はまだ用いられず、扇拍子で歌われたようである。隆達小歌が近世小唄の祖先であり、中世と近世との橋渡しをするものと考えられるのは、その形式である。近世調小歌として代表的な詩形は、7・7・7・5の26文字の詞だが、隆達小歌の作品には今様や短歌型の他に、こうした詞型も混ざっているからである。この隆達節はやがて近世に代表的小唄の創始者の名をとったの弄斎節(ろうさいぶし)へと移ってゆく。のちに京で発達した弄斎は江戸へ入って江戸弄斎となり、投節(なげぶし)に変っていく。



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