鎌倉時代中期、禅僧・覚心(法灯国師)が宋に留学した際、中国の張参より尺八曲「虚霊」(虚鈴)を学び建長六年(1254)に帰朝した。覚心は後に和歌山県の興国寺の住職となり、ここが普化尺八の大本山となった。覚心の門弟・寄竹(後の虚竹)と僧・法伏とその門弟の金先は尺八を携え各地を行脚した。寄竹は関西各地を廻り京都に「明暗寺」を建てた。法伏と金先は関東を廻ったが、法伏は下総(千葉県)の小金で亡くなり金先は小金に「一月寺」を建て、自らは青梅に「鈴法寺」を建てた。
よって「明暗寺」を関西の普化尺八の本山とし、「一月寺」と「鈴法寺」を関東の普化尺八の本山となった。そして室町時代を通してその門をくぐる者も増え、各地に普及した。江戸時代にはいると浪人もこれに入る者も多く幕府も浪人の統制上これらを保護する事とし、尺八を法器として虚無僧の専用とし、一般庶民の使用を禁止した。かくして現代の尺八は完成したが、寛文延宝(1661〜1680)の頃だった。
その後「一月寺」と「鈴法寺」は交通不便の理由から江戸・浅草に一月鈴法両寺の寺務所を設けることとなった。十八世紀の中頃、元福岡藩の浪士、黒沢幸八は尺八の名手といわれ、数々の作曲を加え「琴古流」を創流した。
明治四年(1871)、普化宗が明治政府により廃止され、尺八は法器から純然と楽器として庶民にも広まることになった。
大阪府・河内の中尾都山は明治二十九年(1896)、大阪で稽古所を開設し、「都山流」を創流した。現在尺八は「明暗」「琴古流」「都山流」の三流から派生され多くの派に分かれ、民謡尺八も加わり現在に至る。

「尺八」は、太さ3.5〜4.0cm程の竹の根に近い部分で、竹の節が七個あるものを材料とする。第一節は根に近い部分を筒口(管尻)で 第七節の吹口(唄口)まである。標準管の長さは一尺八寸 (54.5cm)で、尺八の名称はここからそう呼ばれることとなった。ただ現在は、篠笛とおなじく唄や三味線との合奏することから、管の長さは二尺五寸 (75.8cm)から、一尺二寸 (36.8cm)まである。指孔は基本的には五孔で、管の前面に下端から第一孔・第二孔・第三孔・第四孔があり裏に第五孔として一つ孔がある。その後、工夫・改良され、七孔の尺八もある。