浄瑠璃の起こり
近世の音楽でも最も注目されなくてはならないのは浄瑠璃である。まず、浄瑠璃という仏教めいた名前の起こりから述べよう。この名称の中に浄瑠璃発生にからむ事柄が含まれている。発生に関する種々の言い伝えの中から、信頼できそうな個所を拾って辿ってみよう。室町時代に出来た物語を、一般に『御伽草子』と言うが、その一つとして知られている「浄瑠璃十二段草子」は「浄瑠璃物語」とも言われていて、これが浄瑠璃の最初の語り物であった。浄瑠璃の名称ももちろんここに由来する。「浄瑠璃物語」の主な筋は、三河国矢矧の里の長者で海道一の遊君が、三河の国の薬師十二神に祈って生まれた浄瑠璃御前という美女を、折りから陸奥へ下る途中の金売吉次の下人となった牛若丸が、この長者の家へ泊って見染め、和歌の徳による助けでその夜契りを交わし、翌日は陸奥へ出発していくというものである。ここには、浄瑠璃御前の出生から始まって、幾つか神仏の御利益が語られる。長者と御前とかいう名前は、遊女や非人の流れをくむ人々の世界の話で、やはり神社仏閣に寄食していた徒輩によって作られた中世末期の物語であろう。したがって、浄瑠璃は中世の末に起こったもので、その初めは扇拍子で語られたようである。それが後になって三味線の伴奏に代えられたのである。

三味線の登場と浄瑠璃の発展
三味線は永禄の頃(1560年代)琉球から渡来した蛇皮線(三線)を改造したものだという。撥を持って弾奏するのは、この楽器を最初手にした者が琵琶法師であったからである。その後、滝野・沢住両検校によって三絃浄瑠璃が作られたと言われるが、正確なところは判らない。とにかく、傀儡子の職業であった操り人形と三味線とを得て、浄瑠璃は目ざましい発展をとげた。
江戸時代に入って、新しい語り物として歓迎された浄瑠璃の太夫に杉山丹後掾と薩摩浄雲という人物がいた。この二人は京から江戸へ下って浄瑠璃を広めた。この二人の門下から多くの浄瑠璃太夫が輩出し、彼らの殆んどが新しい流派を名のった。その中で、現行の浄瑠璃に関係の深い流派を挙げるなら、杉山丹後の系統から江戸半太夫(半太夫節)、十寸見河東(河東節)、また、薩摩浄雲の系統からは薩摩外記太夫(外記節)、大薩摩主膳太夫(大薩摩節)、虎屋永閑(永閑節)、都太夫一中(一中節)、竹本筑後掾(義太夫節)などが出た。これらの中で、半太夫節は河東節の中に面影をとどめ、外記節もまた河東節の中にその姿を残している。大薩摩節は後に長唄に吸収され、永閑節は地唄の中に僅かに存在していると言える。また、一中節は現行の浄瑠璃として美しい曲調を今日まで伝えていると同時に、この一中から豊後節が生まれ、江戸歌舞伎の世界で江戸の遊里において大きく花を開かせた。

常盤津・富本・清元
こうして豊後系浄瑠璃の中でも常盤津・富本・清元の三浄瑠璃は血のつながりの最も濃い間柄と言うことができる。したがって、この三派を豊後三流とも言っている。しかし、現代に至って三派中の富本節は殆んど滅亡の一歩手前にある。これを再興しようという企てはあるにはあるが、昔全盛を極めた時代の富本が再現することは恐らくあるまい。富本節がこうした運命を辿ったのは、常盤津と清元の中間に位置する曲風が、富本を大衆から見放す結果となったものであろう。