安土桃山時代に久留米の善導寺の僧賢順が、九州に残っていた古筝曲を集めて整理し、これらを基調として組歌(筑紫詠)10曲を作り、「筑紫流」を創始した。この筑紫流筝曲は徐々に廃れ大正時代以後は世人から忘れられた。
賢順の門弟法水から江戸で筑紫流を教えられた、後の山住勾当(勾当は当道座に属した盲僧の官名で、検校・別当・勾当・座頭の順位である。)は、筑紫流が一般の人々の耳に馴染み難いことを思い、筑紫流を改作し近代化して新らしい筝曲を創始した。この人は寛永16年(1639年)に上永検校となり、後に改名して八橋検校となった人である。近代筝曲の開祖と言われる人である。
八橋検校の門弟北島検校に師事した生田検校は、元禄8年(1695年)に生田流を開いた。生田検校は八橋検校が行なった筝曲の近代化を一層推進させた人である。その顕著なものは、当時世間で大いに流行していた三味線と提携したことであった。ここにおいて地唄と筝曲とが融合することになった。
生田検校と同門であった住山検校は住山流をおこし、継山検校は住山流から出て継山流をおこした。また、八橋検校の伝統を守ろうとする新八橋流などもあるが、これらはいずれも広義の生田流に含まれる。
生田流筝曲を江戸に広める目的で江戸へ下った長谷富検校の門人山田斗養一つまり山田検校の山田流筝曲は、生田流と十分に対抗できる勢力となって今日に至っている。


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「五段砧」(ごだんぎぬた)は19世紀半ばに光崎検校が作ったと伝えられる。「砧」は昔各家庭で夜に布を叩いてつやを出す仕事を指す言葉で、その音は秋の夜などは遠くまで響き、いかにも秋らしい趣を表すものとして様々に音楽化されている。光崎検校は、筝曲や三味線曲で取り上げられてきた有名な旋律に手を加え、これに高音部の替手を付け、二重奏曲として編曲したもの。「砧物」の多くは4段構成なのに対して、この曲は5段構成なので「5段砧」が曲名となった。日本では中学校の鑑賞曲に指定されているので、メロディーになじみのある方も多いはず。
生田流 筝/米川文子


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名古屋の吉沢検校が安政(1854−1859)の頃、純筝曲として作曲したもので、歌詞には古今集と金葉集とから千鳥に関する和歌を一首ずつ選んで作り上げた。これは組歌風に古今組と名づけられた五曲の中の一つである。五曲というのは、(1)千鳥の曲(2)春の曲(3)夏の曲(4)秋の曲(5)冬の曲の五曲である。この中で「千鳥の曲」だけが前唄(古今集)と後唄(金葉集)との間に手事を挿入してある。手事とは楽器の技巧を重視した間奏的な部分を言う。
三味線を加えず、雅楽からヒントを得て工夫した「古今調子」という調絃法によって作られている高雅な趣きの曲である。「六段」と並ぶ名高い曲でもある。
生田流 唄・筝/野坂恵子


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四国宇和島藩伊達家の息女が、島原藩の松平家に嫁して江戸で数ヶ月を過したが、夫が参勤交代で帰国したまま病没してしまったので、実家の両親が娘を慰めるために、立派な筝を作って与えた。その筝の名にちなんだ歌詞を作り、同家に出入りしていた三世山木検校と初世中能島検校とが共同で作曲した作品である。山田流独特の唄物で、手事もあって、山田流で人気のある曲。なお、同名の曲が生田流にもあるが、同名異曲である。
山田流 唄・筝/中能島慶子


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千代田検校の作曲。江戸時代末期に作品。能の「竹生島(ちくぶじま)」を山田流筝曲に移したもの。シテ(漁夫の翁)の登場以下を凝縮し、辞句を改めたもの。能の天女ノ舞を『楽』(笛が入ったリズム隊)で、竜神の出を『合の手』で表現する。筝は雲井調子(筝の調弦法)三味線は三下りで演奏される。
曲の内容は能に準じており、後醍醐天皇の臣下が漁夫の翁に誘われて竹生島に渡り、女人禁制の島に海女がいるのを不思議がると、海女は弁財天となり翁も竜神となって現れ、舞い踊るというもの。ここでは、弁済天の舞(『楽』で現される)から終章までの聴き所を収録している。
山田流 唄・筝/上原眞佐喜・永井眞寿恵 三絃/田中佐喜秀 尺八/山口五郎