長唄は江戸の歌舞伎音楽として発達してきたもので江戸長唄と呼ばれることもある。多くの人から親しまれてた結果、劇場音楽としての分野だけでなく、幕末頃から次第に演奏会用の曲が作られるようになり、今日でもそうした両面の機能を持っている。なお、古曲の荻江節は、十八世紀の後半において、お座敷唄を目指し長唄から分離した一流である。
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長唄のメリヤスものとして名高い曲であるが、年代も作者も共に不明である。昔から長唄の手ほどきの曲として、子供たちが最初に稽古させられたものである。
共寝をした明け方には恋人との別れを恨む女心を唄った曲である。名題の「明の鐘」というのは、男女の起き別れを促す暁の鐘という意味である。子供向きの入門曲にこうした歌詞をもったものが適切かどうかということも、昔の人は余り考えなかったのである。また子供たちにしたところ、意味などは判らずに歌っていたのである。だから、これを子供向きでないとして、春の夜明けを待つ内容に改作しているのは、大人の邪気が目に見えて面白い。
この名題を俗に「宵は待ち」とするのは、歌詞の冒頭から来ているが、子供が舌足らずに訛って「宵や待ち」ということもあった。泉鏡花の名作『歌行燈』の中で芸妓のお三重の述懐に「_不器用を通り越した、調子はづれ、其の上覚えが悪うござんすで、長唄の宵や待ちの_三味線のテンもツンも分かりません。」とある。子供向きの入門曲には違いなくても、上手に演奏するのはやはり難しいのである。
唄/皆川健、三味線/芳村伊十七
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四世杵屋六三郎が六翁と改名してからの作品。作曲年代は不詳だが安政年間(1854〜60)といわれている。六翁の娘の襲名披露の折に作られた。曲も短く、簡潔な構成なので長唄の手ほどき曲として広く普及している。内容は遊郭のことになぞらえ、禿(かむろ)[廓にいる幼女]が松の位の太夫(たゆう)になるようにと前途を祝したご祝儀曲。前弾きは松風の感じを表している。歌の内容に似合わず上品な曲である。
唄/芳村伊十郎、三味線/山田抄太郎
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安珍・清姫の伝説を脚色した能の「道成寺」を起源とした曲の一つであって、六十種類以上に及ぶと言われる道成寺ものの中で一番名高い曲と言ってよい。宝暦三年(一七五三)三月、初世中村富十郎が江戸へ下った時のお目見得狂言とした出した舞踊劇に使われた長唄である。作曲は当時名手と言われた杵屋弥三郎であった。
能「道成寺」の筋というのは、清姫の切なる恋心をそらして逃げた山伏安珍の後を追って、清姫の執心は毒蛇となり、道成寺の撞鐘を下ろして中に隠れた安珍を、鐘もろとも溶かして殺してしまう。その後、道成寺では再び撞鐘を鋳造して鐘供養を営んでいる時に、白拍子が一人やってきて鐘供養を見せて欲しいという。その白拍子は清姫の亡霊で、やがて鐘が落ち清姫は中に姿を隠してしまう。しかし、僧侶たちの祈祷で鐘は再び鐘楼に戻り、中から現れた蛇体は日高川に飛び入って姿を消すという話である。
ところが「京鹿子娘道成寺」では白拍子の花子のいろいろな踊りを見せることに眼目があるので、道行きに始まる花子の出と中頃の舞と、最後の鐘入り以外には道成寺らしいものは何一つない。すべて当時の小歌類を寄せ集めて、次々と目先の変った華やかな踊りをみせることが狙いであった。道成寺の筋は前後の締め括りに利用されているだけである。だから人は華麗で目の覚めるような踊りと曲とに堪能すれば好いのである。ここに収録された部分は鞠唄の段である。歌詞は諸国の廓尽しであるが、当時華やかなものの代表が遊里であったので、鞠をつく娘の鞠唄を廓尽しに仕立てている。
唄/芳村伊十郎、三味線/杵屋栄次郎
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市川団十郎の家の芸『歌舞伎十八番』の一つとして名高い「勧進帳」の筋の展開を説明する役割をもつ長唄である。この舞踊劇は能の「安宅」の筋をそっくりそのまま取って、七世市川団十郎が能の形式を模倣したものであって、長唄の歌詞も「安宅」から要所々々を抜いて綴り合わせたものである。舞踊劇としても長唄としても名作の名の高いものである。
天保11年(1840)三月、江戸の河原崎座において封切られたもので、作詞は三世並木五瓶、作曲は四世杵屋六三郎である。なお、初演の時の配役は、弁慶を七世市川海老蔵(七世市川団十郎)、富樫を市川九蔵、義経を八世市川団十郎という顔ぶれであった。
曲の荒筋は源頼朝に追われて奥州平泉へ落ちてゆく源義経の一行が加賀国の安宅へ差しかかると、加賀国の大名富樫左衛門は頼朝の名を受けてこの地に新しく関所を設け、山伏姿の義経一行を待ち受けていた。やがて弁慶の智略で通過を許されることになったが、番卒が強力に化けていた義経を見咎めたことから、弁慶は苦肉の策で、主君の義経を散々に打擲する。富樫は弁慶の心を思い遣り、義経一行を無事通過させるという筋である。「勧進帳」という名題は弁慶が富樫に対して東大寺建立のための勧進山伏(=寄付を集める山伏)と名告ったので、富樫から勧進帳(=寄付を集める趣意書)を読めと言われて、仕方なく雑記用の巻物を抜いて、空で勧進帳の文句を唱えるという筋から名付けられたのである。弁慶は元は比叡山の西塔のいた荒法師ということになっているので、勧進帳の形式を知っていたわけなのである。なお、富樫が武士の情けで義経一行を見逃すということは、歌舞伎の演出がそうなのであって、能の場合では弁慶たちの勢いに恐れて通過させたと解釈される。
唄/芳村伊十郎、三味線/杵屋栄蔵
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長唄に四種類の「小鍛冶」があるが、その中で一番ポピュラーなのがこの曲である。天保三年(一八三一)九月、江戸の市村座で澤村訥升が演じた五変化の舞踊曲の一つである。作詞は劇神仙、作曲は二世杵屋勝五郎であった。
なお、変化舞踊というのは、舞踊劇において主役となる役者がいろいろな登場人物に扮して、変化の妙を見せながら踊るものを言う。この訥升の場合は、「舞姫」(長唄)、「子守女」「女夜番」「軽業」(以上三曲は常盤津)、「小鍛冶」(長唄)といった形で演ぜられたのである。
曲の内容は、刀鍛冶の三条小鍛冶宗近が、稲荷山の神の加護によって、名刀の子狐丸を鍛え上げたという伝説を長唄に作ったものであるが、直接の題材は能の「小鍛冶」である。短い曲ながらキッチリとまとまっていて、名曲というにふさわしい。
唄/芳村伊十郎、三味線/杵屋栄蔵
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弘化二年(一八四五)十二月、江戸の麻布不二見坂に新築された南部利済の邸で行われた新築披露宴で封切られた長唄である。作詞は当時隠居の身の上であった南部利済で、作曲は十世杵屋六左衛門である。
劇場とは関係のない長唄で、いわゆるお座敷長唄と言われ、演奏会用長唄の代表曲といってよい名曲である。前弾きには山田流筝曲の「岡康砧」の旋律、筝の合方には「乱輪舌」の旋律型を取り入れ、全体は秋の風物を歌詞に仕立て、華やかな曲調の中にも秋の物寂しい気分が流れている。中程には菅原道真作の朗詠から引用した歌詞がり、取り扱いに困った作曲の杵屋六左衛門は大薩摩節の手法を用いて、作曲したという逸話は名高い。なお大薩摩節は、日本音楽の歴史でも触れたように、元来は歌舞伎の荒事に使われた浄瑠璃であったが、荒事歌舞伎が衰微するにつれて次第に劇場出演の機会もなくなり、文政九年(一八二六)に家元の権利が十世杵屋六左衛門に譲られた。それ以来大薩摩節は長唄に吸収されたのである。言い伝えによると、家元の権利は僅か五十両で六左衛門に売られたのだという。
唄/芳村伊十郎、三味線/山田抄太郎
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