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歌舞伎について

歌舞伎は近世初頭に阿国の歌舞伎踊りとして始まった。
(*日本音楽の歴史歌舞伎踊りの項参照)
「歌舞伎」は後世の当て字で、本来は「傾く」(かたぶく)という当時の日常用語が使われた。街中を目立つ風体で闊歩する(ツッパリ)の若者をかぶき者(傾き者)と呼んだが、その風俗や言動を舞踊劇に面白おかしく取り込んでいったのが「かぶき踊り」だった。
寸劇がやがて本格的ストーリー(狂言)となり、立役(たてやく)・女方(おんながた)・敵役(かたきやく)などの役柄・配役(キャスト)が整備されて、多幕物のつづき狂言に発展してく。
初期の歌舞伎が民衆に深く浸透するにつれ、幕府は風俗紊乱を理由にしばしば干渉。それにつれて歌舞伎を演ずるスターたちも〈遊女〉〈若衆〉〈野郎〉と替わった。

野郎歌舞伎となってはじめて、男優がすべての役柄を演ずる今日の様式が確立する。
近世に入った直後に鎖国し、海外からの影響が少なかった約200年の間に、歌舞伎は上方や江戸の都市文化を色濃く反映し、対話劇・浄瑠璃劇・舞踊劇を融合した独自の舞台芸能のスタイルを作り上げていく。
[元禄(1688〜1704)] 消費経済の主役となった町民の文化を背景に、歌舞伎は上方と江戸にそれぞれ独自の狂言を作りあげた。上方の歌舞伎では富豪の若旦那が零落し遊女と濡れ場を演ずる「和事」狂言を生み、一方江戸では全国から集まった武家の子弟や農村からの移住者を背景に御霊信仰(不動明信仰)のシンボル曽我五郎などが活躍する「荒事」狂言が生れた。

第一次完成を見たこの時代に、猿若(中村勘三郎)や初代市川団十郎が活躍し、近松門左衛門などの優れた作家が輩出した。

[天明(1781〜1789)] 元禄が終わると歌舞伎の人気は低迷する。対照的に人形浄瑠璃は全盛を迎える。役者の芸にたよる歌舞伎はアドリブも多く、ストーリーの貧弱さが観客に飽きられたのだ。これにひきかえ作者が筆の力で脚本を書く浄瑠璃は、筋立ても複雑で内容も優れ観客を楽しませた。そこで歌舞伎は人形浄瑠璃の台本をそのまま取り入た狂言を上演する。「仮名手本忠臣蔵」、「義経千本桜」などが代表的。せりふ部分を役者が、三味線にのせてかたりの部分を竹本(義太夫の太夫)が唄う。舞台は音楽的になり、演技はより舞踊的なっていく。まず上方で起こったこの動きは江戸にも入り、唄いや三味線合奏を洗練した江戸長唄も登場する。
[文化・文政(1818〜1830)] 文化の中心は上方から江戸に移り、退廃的傾向が強まった時代。ここで登場したのが鶴屋南北(1755〜1839)。「東海道四谷怪談」が代表作で知られるが、庶民の恋愛の感情や義理をリアルに描く「世話物」(せわもの)といわれる新しい作品群で人気を博した。芝居に底辺の庶民の生活や、尖がった江戸言葉(『べらんめえ調』など)をおり込んだことも特徴。 [幕末] ペリー提督の来航などで世の中が騒がしくなった時代。歌舞伎にもう一人の天才作家が登場した。河竹黙阿弥である。『月は朧(おぼろ)に白魚の…』(「三人吉三」)、『知らざあ言って聞かせあしょう…』(「弁天小僧」)、誰もが知っている名台詞の作家。これらの作品は町の小悪党を主人公にしたので「白浪物」(しらなみ:泥棒物)ともいわれ、名優四世市川小団治と組んで大成功した。



常盤津・富本・清元
宮古路豊後掾の同門の富士松薩摩掾は、その一門から鶴賀新内を世に出し、一派は新内節として知られるようになった。さらに初代常盤津文字太夫の高弟で富本豊前掾は別の一派を立てて富本節と称した。また二代目富本豊前太夫の脇をつとめていた二代目富本斎宮太夫は、これも一派を立てて文化11年(1814)に清元延寿太夫と名のり、清元節をひろめた。
こうして豊後系浄瑠璃の中でも常盤津・富本・清元の三浄瑠璃は血のつながりの最も濃い間柄と言うことができる。したがって、この三派を豊後三流とも言っている。しかし、現代に至って三派の中で富本節は殆んど滅亡の一歩手前にある。これを再興しようという企てはもあるが、昔全盛を極めた時代の富本が再現することは恐らくあるまい。富本節がこうした運命を辿ったのは、常盤津と清元の中間に位置する曲風が、大衆に見放される結果となったのであろう。
古曲
豊後系浄瑠璃は以上挙げたものの他に、宮薗節・繁太夫節が今日残されている。宮薗節は宮古路豊後掾の門弟宮古路薗八が立てた流派で、発祥地の上方において一時栄えていたが、文化・文政の頃には衰えて、江戸に移された時には断片的な十曲が遺されたに過ぎなかった。現代では一中節・河東節・荻江節と並んで古曲と一口に称される。十曲中の代表曲は「鳥辺山」であるが、その古雅で美しい曲調は今でも人の心を魅惑するものを持っている。また、繁太夫節は地唄の中に繁太夫ものとして残っているだけである。

長唄
正確に言えば江戸長唄という。地唄の中に長歌(長唄)という種類があるので、それと区別するためである。現代において邦楽の中で一番多くの人に親しまれている音楽である。


江戸長唄は、もともと江戸歌舞伎の中で、舞踊の伴奏として生まれた芝居唄である。したがって、初期の長唄は歌本位の小曲に過ぎなかったが、これを習おうとする人が次第に増えてきて、劇場だけの音楽ではなくなり、江戸時代の末期頃からはお座敷長唄(演奏会用長唄)というものが次第に作られるようになって、独立した日本音楽としての地位を次第に高めていった。
十八世紀中頃の宝暦時代(1751-1764)に、作曲家として、また、唄方として名声のあった富士田吉次は一中節の出であったために、唄に浄瑠璃の手法を加えるようになった。また、文政九年(1826)には浄瑠璃である大薩摩節の家元としての権利も獲得した。このようにして、音楽としての内容を次第に充実させてきたのが長唄であった。



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